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遍路旅の中での「最大の修行」
人生初の宿坊宿泊と、朝の「お勤め」体験。
それが、今回の遍路旅で“最大の修行”になるとは、思ってもみませんでした。
4泊5日の歩き遍路旅。3日目の夜は、第37番札所・岩本寺にある宿坊に泊まりました。
歩き遍路が主流だった時代には、札所に併設された宿坊が“当たり前”のように存在していました。
たとえ車や観光バスが普及した昭和の頃でも、山間の不便な場所にある札所が多く、宿坊は遍路者にとって大切な存在だったのです。
▶岩本寺さんはとてもユニークなお寺です。
けれど、近年は歩き遍路自体が減少し、それに伴って宿坊の数も激減。
そんな中でも、第37番札所・岩本寺は、次の第38番・金剛福寺まで82.7kmという“最長・寺なし区間”を抱えているため、今なお遍路宿としての役割を果たし続けています。
岩本寺の宿坊では、早朝に本堂で行われる僧侶の修行――いわゆる「朝のお勤め」への参加ができます(※任意です)。
早朝に出発する遍路さんは各自でお参りを済ませて発つこともありますが、私はせっかくの機会、ぜひ体験してみようと参加を決めました。
そして私はこの朝――
「時間」との付き合い方、そして「整えることの意味」と、あらためて向き合うことになったのです。
この日、この旅の最大のお楽しみ「鰹のたたき定食」を目指して…
この日、いや――この旅で、私がもっとも楽しみにしていたのは、第4日目の昼食でした。
それは、道の駅「なぶら土佐佐賀」でいただける、明神水産さんの**「鰹のたたき定食」**。
ここまでの旅路で、私はすでに70km以上を歩いてきました。
空腹をしっかり満たせる“ちゃんとしたごはん”は、修行の中にあるささやかな楽しみ。
道中にあるこの道の駅の「ごちそう」を、私は旅の出発前から心の支えにしていたのです。
岩本寺からなぶら土佐佐賀までは、およそ19km。
歩き遍路の平均速度は時速4km前後なので、遅くとも朝7時半には出発すれば、昼過ぎにはたどり着けるという計算でした。
朝のお勤めは静かな修行の時間、のはずが…
朝のお勤めは、朝6時ちょうどから始まりました。
高校生の部活よりも少し早いくらいの時間。眠気をこらえて本堂に向かいます。
お勤めでは、ご住職の指導のもとで焼香し、読経をします。
その後、遍路文化やお寺の由来について、ご住職からのお話がありました。
その説法が……30分以上。
私はてっきり、読経とお話を合わせてもせいぜい30〜40分程度だろうと思っていました。
でも、すべてが終わったのは朝7時ちょうど。
「おや…予定が…ちょっとズレてきたかも?」
事前に「お勤めの流れ」や「所要時間」の情報を得ていなかった私は、
次第に「このあとちゃんと鰹のたたき定食に間に合うのか?」と気が気でなくなり始めていました。
その後、「早く食事を済ませて出発しよう!」と焦りながら朝食へ。
ところが、同席したマイカー遍路の方と話が弾み、気づけば出発は午前8時。
予定より30分の遅れ。
「遅くとも7時半には出ようと思っていたのに…」
ここから、“心の乱れ”という名の修行が、静かに始まったのです。
時間との戦い? いいえ、それは“自分”との戦いでした
8時に岩本寺を出発。
当初の計画では、13時には道の駅「なぶら土佐佐賀」に到着して、「鰹のたたき定食」にありつけるはずでした。
「焦らず、いつも通りに歩けばいい」
そう思っていたはずの私でしたが——。
途中、道に迷ってウロウロ。
ガイドブックを片手に右往左往していた私に、地元の方が一言。
「そっちは逆だよ! 岩本寺に戻っちゃうよ!」
さらに、天気も下り坂。
最初は小雨だったので合羽を着ずに歩いていましたが、だんだん本降りになり、結局は渋々合羽を装着(これ、地味に時間を食うんです)。
小さな時間のロスが重なり、「たたき定食、間に合うかな…?」という焦りがじわじわと心を締め付けてきました。
そうなると、自然と足が速くなります。
頭の中は「あと〇km」「あと〇時間」の数字だらけ。
立ち止まって写真を撮る余裕も、花や川の風景を楽しむ心の余白も消えていきました。
雨。焦り。疲労。
そして、「定食を逃すかもしれない」という恐れ。
自分のミス(朝食をゆっくり食べすぎたこと、道に迷ったこと)には目をつむり、
気がつけば、私は**「お勤めが長かったからだ!」**と、朝の説法にまで責任を押し付けようとしていました。
「お勤めなんか、参加しなきゃよかった…」
「たたき定食が食べられなかったら、あれのせいだ…」
そんな思考にまで陥っていたのです。
本来、美しい里山風景が広がる「四国のみち」。
伊尾木川沿いの景色は、私の心にはほとんど残っていません。
競歩のような早足で、無表情で、ただただ「定食」に取り憑かれたように歩いていたからです。
そしてついに、道の駅のすぐ手前にあるコンビニにたどり着きました。
「よし、もうすぐだ。たたき定食に間に合う!」
安堵したその瞬間、あの外国人のお遍路さんと、再び出会いました。
▶ 高所恐怖症の私を助けてくれたお遍路さんとの出会いはこちら
彼はコンビニでカップ麺を食べていました。
私を見て、にっこり笑いながら言いました。
“Do you have to ride train?”
“Why are you in such a hurry?”
「ドウシテ アナタハ ソンナニ イソイデ イルノデスカ?」
私は、はっとしました。
人から見ても分かるほど、私は「急いで」いたのだ。
しかも、旅の醍醐味であるはずの「道のり」ではなく、「目的」ばかりを見ていた。
たしかに、鰹のたたき定食は楽しみにしていたものです。
でもそれが食べられなかったら、旅が台無しになるほどのことだったのか?
「食べられたらラッキー」くらいに思えなかったのか?
むしろ、自分の欲望が叶わなかったとき、なぜそれを誰かのせいにしたくなるのか?
修行の時間を「長い」と感じて、心の中で責めてしまった自分。
恥ずかしくて、恥ずかしくて、思わずうつむいてしまった瞬間でした。
その後の旅の続き
そして私は、塩たたき定食に救われた——煩悩と再会の午後
「旅の恥はかき捨て」とは言うけれど、
このときばかりは、かき捨てられないほどの恥ずかしさを抱えていました。
でも、お腹は正直です。
空腹には勝てません。
執着しまくっていた「塩たたき定食」、念願かなってついにありつきました。
……やっぱり、美味しい。
雨に打たれ、焦りにまみれ、恥ずかしい思いまでしてたどり着いたその一皿。
塩で引き立てられた鰹の旨味に、全身がふっと緩みました。
腹が減っていては、ろくなことを考えない。
煩悩まみれの私は、なおさらです。
ひと息ついた私は、しっかり休憩をとって、
この日のお宿まで、あと10数kmを歩くことにしました。
今度は競歩のような足取りではなく、
雨の中、ゆっくりと反省しながら――。

【私が執着していた「塩たたき定食」】
そして、再会。
宿に着くと、聞き覚えのある声が。
「コンニチハ! オヒサシブリデス!」
「Can I help you?」
……いた!!
あの外国人のお遍路さん!
恥ずかしいやら、うれしいやら、ほっとするやら。
でもこれは、ちゃんと「急いでいた理由」を伝えるチャンスだと思いました。
スマホを取り出して、塩たたき定食の写真を見せながら、
「I really wanted to eat this!」
すると彼は目を見開き、大爆笑!
「I didn’t know such delicious food!」
「So, I ate ramen in a cup…」
(そんな美味しいものがあるなんて知らなかったよ。だから僕はカップラーメン食べちゃったんだ…)
ふたりで爆笑。
たとえ言葉が拙くても、
「ごちそうを食べたい気持ち」は世界共通。
それが旅の醍醐味のひとつであることを、あらためて思い出させてくれた時間でした。
私にとっての最難関の修行。現代に生きる私の「時間」とは…。
「遍路に来てまで、“タイパ”を気にしている私って…」
住職の説法は20分を超えていました。
きっと、とてもありがたいお話だったはず。
でも、「あとどれくらいで終わるのか」という情報がないというのは、
思っていた以上にストレスだったんです。
私たちは、
「9時に出勤して、12時に昼休み、18時に退勤」と、
一日を“時間割”で生きることに慣れすぎています。
それが外れてしまったとき、
心の中の「いら立ちセンサー」が反応する。
「こんなにも、私は時間に縛られていたんだ」と、痛感しました。
この遍路旅には、初日に「高い橋を渡る」という試練がありました。
でも、本当の“難所”は、橋の高さじゃなかった。「あと何分で終わるんだろう」
「いつになったら食べられるんだろう」
「なんでこんなにダラダラしてるんだろう」そんなふうに、“時間に急かされる心”こそが、
私にとって一番手ごわい修行だったのだと、今は思えます。
遍路旅は「心を整える旅」だと言われます。
でも、整う前には、「乱れる自分」と出会う時間もある。
その乱れの中に、自分の弱さや不寛容さがあって、
それを知ることが、ほんとうの意味で「整える」ことに繋がっていくのかもしれません。
たたき定食は、間違いなく最高に美味しかった。
でも、それ以上に――
旅の終わりに、自分の中の“時間の声”を静かに聞けたこと。
それが、私にとってのいちばんの「ごちそう」だったのかもしれません。
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